群馬県館林市立美術館『生誕110年 傑作誕生・佐藤忠良』のレポート!事前に抑えるべきポイント、見どころ、基礎知識、詳細をお届け!

美術展解説

こんにちは。この度は私の記事を読んでいただきありがとうございます!早速ですが、今回は群馬県館林市立美術館にて7月16日~9月19日まで開催されている『生誕110年 傑作誕生・佐藤忠良』についてご紹介します♪ 

佐藤忠良は今では、『おおきなかぶ』をはじめとする絵本作家としての功績が有名ですが、彫刻家としての姿は、皆さんはどのくらいご存知でしょうか?今回は絵本作家ことはもちろん、彫刻家・佐藤忠良の仕事や生涯を中心に、この展覧会に向けた基礎知識をわかりやすくご紹介いたします!

今回参考にさせていただいた本はこちらです!佐藤忠良を取り巻く様々な方が、彼の功績について語っている講義形式の内容になっています✨↓↓↓

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784881691700

佐藤忠良はどんな人生を過ごしてきたの?(経歴)

  • 1912年宮城県出身→父が死去、6歳の時に一家で北海道に移住
  • 高校時代は群馬県出身の大学生と同居
  • 上京し、東京美術学校の彫刻科入学
  • 第二次世界大戦で満州で戦ったのち、1948年までシベリア抑留
  • 帰国後、再び彫刻に専念
  • 桑沢デザイン研究所講師、東京造形大学彫刻家主任教授を務める
  • 退職後も彫刻作品を制作
  • 2011年 死去

このようにして見ると、佐藤の人生がいかに彫刻一色のものだったかが分かりますね。

一方でシベリア抑留の日々が、ロシア原作の『おおきなかぶ』の登場人物のリアルな容貌を描くのに役立ったというエピソードもあり、彫刻以外の仕事も彼のこのような人生があったからのものだということが分かります。

佐藤忠良の彫刻のスタイルはどんな感じだったの?

実は、『彫刻』という言葉は江戸時代以前の日本にはなく、明治時代に西洋から伝わってきた概念でした。今回は、並行する日本の近代彫刻の流れも軽~くお話ししますので、今回は佐藤忠良の彫刻史の立ち位置も知っていただけたらと思います! また佐藤の制作スタイルの変化も、第1期~第3期と分けてご紹介していきます♪

第1期の彫刻(~1950年ごろ)

日本の彫刻史を語るうえで欠かせないのが、イタリアのロダンという彫刻家です。『考える人』『地獄の門』を作った人といえば、分かる人も多いでしょうか?ロダンは美術史の中では古典派・自然主義といわれており、高貴なものから庶民的なものでも、ありのままの姿を写実的に表現するスタイルです。

日本に彫刻が伝わった当初は、このロダンのような自然派の作品のみが伝わってきたので、必然的に全ての日本の彫刻家はロダン風の作品を制作していました。佐藤も高村光太郎訳の『ロダンの言葉』という書籍を愛読し、作品も『ロダンの後継者』と呼ばれるほど影響を受けています

しかし佐藤忠良の第1期の作品は、この古典派の次にフランスで登場した、『独立派』と呼ばれる人たちの作品の影響を特に受けていました。『独立派』では、岩のようなマッチョな肉体の像(ブールデル作)や、丸みがあって単純化された女性像(マイヨール作)など個性豊かな作品が制作され、佐藤も戦後の数年間まで、彼らの影響を受けた作品を制作しました。

第2期の彫刻(1950年代~1960年代前半)

1950年代になると、日本の彫刻界に新しいリアリズムの波が訪れます。実際に起きた事件に基づく作品など社会問題に切り込むような表現が行われるようになった時代でした。表面的な再現性だけでなく、社会におけるリアリティをどう描写するか、ということです。

この時代の佐藤の作品は、労働者をモデルにした彫刻や、西洋的な美の基準と外れた人物の彫刻を多く制作するなど、芸術の高貴で美しいもの、というイメージを壊す動きの一端を担いました。これは新しいリアリズムの影響と共に、『鼻のつぶれた男』など醜い人物も彫刻にしたロダンの影響もあるようです。

また、この頃までの佐藤は『首狩り』と呼ばれるほど、大半の作品を頭部の彫刻が占めていたようです。

第3期の彫刻(1960年代後半~)

第3期になると、佐藤忠良の作風は再び大きく変化します。全身像が増え、手足が長く、ジーパンや帽子などを身に着けたファッショナブルな彫刻を制作するようになります。

ここには、ジャコモ・マンズーやエミリオ・グレコらによるイタリアの現代彫刻との関連があるのだそうです。佐藤は彼らの作品から様々なポーズや、しなやかな身体表現を学習して、自身の作品に取り入れていきました。もちろんそれらの作品の根底には、ロダンなどから学んだことがオリジナリティとして根付いていました。

このように作風の変遷を追ってみると、佐藤が近現代彫刻史を追うように、作品の進化を重ねてきたことが分かりますね! また泥臭い労働者の姿を作品に表現していた佐藤が、最終的に洗練されたファッショナブルな作品に行きつく過程も個人的に興味深いところでした。

佐藤忠良の絵の仕事はどんな感じだった?

佐藤が最初に絵本の仕事をしたのは戦時中で、2001年まで絵本の仕事を続けました。そのほかにも雑誌や書籍の表紙絵・挿絵、紙芝居などで絵の仕事を行いました。

佐藤忠良は、彫刻で「食えるようになったのは、60過ぎてからだよ。」と語っていて、戦後以降、芸術家は生活のためにそのような絵の仕事を、見つけて資金を得ていたそうです。佐藤も、友人ら(小磯良平、船山馨ら)と連帯しながら絵の仕事を行っていました。

佐藤は絵の仕事もまた、晩年まで制作し、精力的に活動していたようです。

実際に美術館に行ってみた!(レビュー・詳細)

私は土曜日の午後に訪れましたが、鑑賞に集中できる程度には空いていました!館内は写真撮影ができませんので、その点はご注意ください💦

佐藤忠良の彫刻作品は、思ったよりも年代関係なく一貫した部分が多く、初期と後期でも同じ作家の作品とわかるようなオリジナリティがありました!全身像は軽やかで柔らかい動きがあり、迫力とは違いますが、今すぐ動き出しそうなリアリティがありました✨ また絵の方も彫刻同様に自然主義的でリアリティを意識した人物描写で、絵本も細かいところに佐藤のこだわりが見えるものがたくさんありました。

また、今まで紹介したような、佐藤が影響を受けた西洋の彫刻家の作品もあり、それらは佐藤の教科書、インタビュー、著書などの記述と共に紹介されていて、佐藤にとってそれぞれの彫刻家がどのような存在だったかが分かるようになっていたのがとても興味深かったです!!

ここまで私の記事を読んでいただきありがとうございました。質問・コメントもお待ちしております!

今回紹介した展覧会の公式サイトはこちら↓↓↓

生誕110年 傑作誕生・佐藤忠良
生誕110年 傑作誕生・佐藤忠良が群馬県立館林美術館で開催。

参考にした書籍のリンクももう一度載せておきます! 今回はご紹介しなかった、佐藤忠良の教育者としての面も学ぶことができるので是非読んでみてほしいです!↓↓↓

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784881691700

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